岡山で50年振りの同窓会
いよいよ10月17日(月)、今回帰郷した最大の目的イベント、50年振りの岡北中学校の同窓会だ!
岡北中学校教育目標 豊かな心・確かな学力の育成
1.わかる授業 2.愛され感 3.協同 学校・保護者・地域 3.マネージメント
会はAM11:00から少し時間が有るその前に僕の育った実家今はどうなっているのだろう?
僕の両親はすでに他界しているし墓も東京の八王子に移した。岡山には縁戚者は誰もいない。
しかし子供のころ遊んだ公園、通学路、当時一緒に遊んだイサム君の家パン屋を営んでいた草野君の店、毎日通った通学路沿いの小川・・・無性に行って見たくなった。
今いるホテルからタクシーで10分程だ、よし行って見よう日本中のどんな観光地より素晴らしい思い出が残っている場所のはずだ!
確かここに違いない?商店街が無くなって道幅が気のせいか狭くなったように思える。
その上ほとんどの住宅が建て替えられて新しくなっている。何とかレジデンス?
ここに有った大きな材木屋は?確かこの場所にあった材木置き場で鬼ごっこをした?
その場所も○○マンション?この地域の見取り図、相関関係がどうしても思い出せない。
もう一度国道まで戻って歩きなおした。
確かここに散髪屋と風呂屋が有ったはずだその隣が下駄屋で本郷さんところがここでは?
表札を見ると違う名前になっている。
ジャ~子供の頃日の暗くなるまでソフトボールをした公園は?・・アッタ、アッタ!!
“上伊福公園”間違いなくこの碑に登って遊んだその前に有る四角くセメントで囲った砂場もそのまま有る。
その他に幾つかの遊具は増えているが間違いなくこの場所だ!
ここでギョウセン(水飴)を買って紙芝居を見たり、チャンバラごっこをした。
何とも言えない・・感無量だ!少しづつ当時の事を思い出す。なつかしい・・
40分くらいベンチに腰掛け当時の思い出にふけって居た。“はよういかんと遅れるよ!”どこかのヤングママが園児をどこかに連れて行っているのだ。
その声でわれに返り“アッいけない僕もだ”と同窓会の時間が気になり会場へ向かった。
会場は岡山駅前の“ラヴィ―ル岡山”このホテルも知らない。僕が上京した後できたホテルだろう。
ホテル近くで案内のプラカードを持っている女性が居た。同年輩の女性だ“岡北中学校の卒業生の方ですか?”
“そうです。”ただそれだけの会話、相手が誰だか判らないがドッと懐かしく感じた。
その相手と立ち話1~2分ところで“どちら様?”“水江です。”“エー、ミズエさん!?”“おたくは?”“あたしミヤケ・ミチコよ!”“ミヤケさん?”
電話では何回か会話をしており冗談も言っていたがが顔は全く覚えて居なかった。
50年ぶりの再会!さらに懐かしかを感じた。
プラカードを持ったまま一緒にホテルの玄関まで、そこで接客の対応していた女性ニンジョウさんに、ミズエさんが来たよー、そのニンジョウさん、アタシ覚えとるん?・・・覚えているよ。
子供の頃、面倒見が良い?と言うよりおせっかい焼きで、誰にでも遠慮なくズバズバものを言うデブで顔の大きな子だった?体形も雰囲気も今もほとんど変っていない。そのまま年を取った感じだ。
愛想は良いし今は地元の町内会のボランティアをしているとの事。
会場に入り受け付けて名札をもらう、出欠のリストを付けている。参加者の名簿を覗いた。
大塚、池田、小川・・名前は聞き覚えがあるが顔はなかなか思い出せない。
集まった同級生達三々五々立ち話をしている。聞けば大半の人達が岡山市、倉敷市を拠点に生活をしており卒業後も連絡を取り付き合いが有るらしい。
それに15年~16年に1回のペースで同窓会を催しているとの事。
それなら懐かしそうに談笑しているこの雰囲気は理解できる。
何しろ僕は50年振りの顔合わせだ。声を掛けるにしろ掛けられるにしろ顔に全く覚えがない人達の為躊躇する。
名札を貰い会場の卒業時のクラス(I)組のテーブルについた。
少なくともこのテーブルのクラスの人達は間違いなく一緒に勉強をしたりクラス対抗のスポーツ等で力を合わせて練習をした仲間のはずだ。
遠慮なく席の両側に座った人に自分の名札で自己紹介した上で話しかけた。
尾上さん、疋田さん?・・やはり昔の顔はなかなか思い出せない。しかし構わず担任の先生の話、運動部の話、通学の話等をしていると少しづつ、ほんの少しづつ思い出されてくる。
話が弾む不思議にありのままに話が出来る・・何の気取りも無く、野球部の人達も他のテーブルから僕を探して挨拶に来てくれた。当然、彼らとは直ぐに話は盛り上がった。
陸上部 バレー部(強いです) 僕は野球部でした
この開会に当たり当時の生徒会長だった三原誠が挨拶して乾杯、宴会が始まった。
会の進行の中で校歌をみんなで歌うコーナーが有る。
次に呼ばれる5人の人は壇上に上がって下さい。ミズエ・カズマササーン・・チョット待ってよ校歌なんて覚えていないよ、・・今呼ばれた5人の人達は至急に壇上に上がって
下サーイ・・マイクを持たされ配られた名簿の1ぺージの歌詞のところを開いた。
“はるか~に三野のやまあ~おく~”流れてくる伴奏と隣の人の音程を聞きながら音楽がスタートした。
1. はるかに三野の山青く
風さわやかに涌くところ
若き希望の相呼びて
心理と知恵を求めゆく
岡北中学 光あり
少しづつ思い出してきた。2番、3番、だんだん自信がついて最後は全開で歌えた。
自分の席に戻ると、ミズエを覚えてくれていた人達が集まって来てくれた。時々思い違いをしながら大いに話が弾んだ。・・その思い違いが又楽しくその失敗は○○君ジャガー、アーソジャッタカー等と・・知らず知らずみんなだんだん無邪気な昔の顔になっている。
名札を見ながら声を掛け出来るだけ多くの人と話をしたかったが、時間が無くアッという間の2時間だった。
この会に出席しているほとんどの人達は地元で生活している。この後いつでも連絡を取る事が出来るし近くの居酒屋へ連れだって行ける。存分に相談も出来るし愚痴も言い合っているのだろう?
しかし僕はこの後PM18:10の新幹線で東京に帰らなければならない。明日から仕事が待っている。
今日休んだ分を取り返さなければ・・岡山の50年ぶりの同窓会、何とも言えない居心地の良い何とも言えないぬるま湯?このぬるま湯にづっと浸かって居たかった。
しかしそうはいかない明日からから厳しい現実に戻らなければならないのである。
又東京で戦いが始まるのである。
当時(50年前)の卒業生約450名、連絡不明者約100人(内死者44名)今回参加者79名、幹事のミヤケ・ミチコチャン大変な骨折りご苦労様でした。・・・特に僕を見つけ出してくれて有難う!
次回岡山にいつ来られる(帰られる)か判らないが?・・
故郷とトモダチについてじっくりと色々考えさせられた大変貴重な大切な思い出の1日でした。・・
このブログ(50年ぶりの同窓会)は少し大げさですが今までの僕の人生の中で最も大きな感動的な思い出の為、誰かに聞いてほしくて掲載させて頂きました。読み流して頂ければ幸いです。
有難う御座いました。
水江 一正