ジョセフ・オツオリの色紙
弊社、オートギャラクシーは年末追い込みを掛けなければならない忙しい時期ですが色々な事情も有り12月15日同じビルの2階部分に引っ越しする事にました。
今迄の事務所で15年近く、さまざまな資料が山の様に溜まっており、それぞれ整理をしながら仕分けておりました。
その中の“ケニヤバイヤー”のファイルの中に“ジョセフ・M・オツオリ”からの手紙と写真そしてハイエース15人乗り等の売買記録が出て来ました。
懐かしく引っ越し作業の手は暫く休止、その頃の事を思い出しました。
オツオリ(左)さんと 当時の名刺
弊社、1994年頃からヒョンナきっかけでケニヤ人と知り合い中古自動車輸出を始めました。
当時、日本からアフリカ向けの中古車輸出業者は未だマイナーの為、ライバル会社も数社しかありませんでした。
輸出検査も無いし年式規制も無い。時々ケニヤを訪問してサバンナでライオン、キリンやゾウを見に行ったり地元レストランで“ワニのから揚げやダチョウのたたき”を食べたり、のどかなビジネスをしていました。
そうした付き合いの中には箱根駅伝で20人抜きのギタウ・ダニエルやハーフマラソンの世界記録保持者でボストンマラソン優勝のモーゼス・タヌイそして山梨学院のジョセフ・オツオリでした。
ギタウダニエル ダグラスワキウリ
その頃、彼らは日本の実業団に入社しておりケニヤとの間を行き来していました。親戚や知人に頼まれたとかで
弊社にも電話で日本の中古車の相談で連絡が入って居ました。
僕は当時マラソンの事は余り知識が無く山梨学院のオツオリ以外は余り知らなかったのです。それが我が家の茶の間で実業団チーム、エス&ビーのワキウリや後で桜美林大学の監督になったステファン・マヤカ等などの話をしたところマラソン好きな娘が大興奮!
へーそんなに有名なの?僕はそれからマスコミなどでマラソンの記事に興味を持つようになり彼らが出場する大会は当然我が事の様に応援をするようになりました。
ステファン・マヤカ氏の色紙
オツオリ氏にトヨタコミューター15人乗りを販売した時には本人が忙しく“朝早く会って打ち合わせよう!”
AM7:30頃、久米川駅で待ち合わせ朝食を取りながらとの希望でレストランを探したが見つからず朝早くから開いている“ロイヤルホスト”へ、当時この地域では黒人の客は少なくウエイトレスがけげんそうにオーダーを取りに来た。“お客様もしかしてマラソンのアノーアノー”そこで僕が“そーあのオツオリ選手だよ”と言うと早朝の為客は少なかったが大騒ぎ!“マズカッタカナ?”と思ったが後の祭り、用もないのに水の補充に来たり色紙を頼まれたり・・しかも他人の分まで・・しかし彼は嫌な顔一つしないでサインをしていた。
“ここへケイコさんへ”と書いて頂けますか?等などと。
やっと落ち着き朝食にありついた彼は身長にして170CM位だったと思う、良く食べるし声が大きい屈託がない優秀なプロスポーツ選手は皆こう言う純粋な人が多いのかな?等と思いながら詳しくないマラソンの話をした。
今考えればその時のオツオリ“つまんない事話す奴だ?”と思ったのだろう?しかし全てに真面目に答えてくれたナイスガイだった。
オツオリ氏
そのオツオリ氏が2006年8月30日ケニヤで交通事故死をした。日本のマスコミにも大きく報じられた。
かなりショックだった。やはり山梨学院大学の初の留学生ランナー1年生のオツオリが箱根駅伝の花の2区で7人抜きをやってのけたインパクトが日本中の人々の脳裏に残っていたからでしょうね?
当時、箱根駅伝に外国人留学生の参加に賛否が有ったようですが?
(今年の箱根駅伝、山梨学園が花の2区で襷が途切れてしまった・・デモ学生たちは順位に関係なくても走り続けた・・感動のドラマがそこにはありました)
しかし現在、弊社ではケニヤ向け輸出について年式の規制が有り登録後8年以内、即ち平成17年UPしか持ち込めなくなった。その年式のマイクロバスの集荷は中々困難な上、日本国内で充分なマーケットが有る為、殆ど船積みには至りません。従って最近のケニヤ勢のランナーとはお付き合いが無いのが残念です。
・・・“シャチョー早くその荷物を運んでクダサーイ!”忙しく動いているスタッフにせかされて再び現実に戻った引っ越し日でした。
ジョセフ・モガンビ・オツオリ選手のご冥福をお祈りいたします。
水江一正
追記
今回事務所移転に伴い書類を整理していますと”オツオリからの手紙”が出てきました。
懐かしく思い掲載いたします。
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